「昔の日劇よ」と、エレベーターを待っているとき、ご年配の女性が連れのお友達に説明していた。自分が年齢を重ねたせいか、身のまわりに年上の方々が少なくなる今日この頃だったが、この瞬間から年上だらけな時間が始まった。日劇がなくなったのは、もう40年以上も前。
どことなく、サイケ。
さすがの大物揃い。石原まき子さんの名前もあった。
石原裕次郎の最後のシングルになった『わが人生に悔いなし』は、なかにし礼が詞を書き、加藤登紀子が曲を書いたそうだ。
> 加藤はなかにしさんと同じく旧満州・ハルビンから日本に引き揚げ、1966年になかにしさんが作詞した「誰も誰も知らない」で歌手デビュー。87年に亡くなった俳優の石原裕次郎さんの生前に発売された最後のシングル「わが人生に悔いなし」はなかにしさんが作詞、加藤が作曲を手掛けていた。
加藤登紀子、なかにし礼さんへ追悼の熱唱「わが人生に悔いなし」 引き揚げ、共作…不思議な縁:中日スポーツ・東京中日スポーツ
コンサートでは歌もすごかったけど、トークもすごかった。中でも一番印象に残ったのは「あたしの歌は別れが多いってよく言われるけれど、別れはとても大事なこと」というくだり。確かに、別れという節目を受け止め、向き合い、受け入れることを積み重ねていけば、人生後半も大船に乗った気分でいけそう。
ゲストのタブレット純も忘れられない。「和田弘とマヒナスターズ」の最後のボーカルだったという彼は、歌うと超ムード歌謡。話している時と、歌声のギャップが強烈でお笑いに誘われたという。
浅草の東洋館で、和歌山から来た修学旅行の高校生を相手に、一度も笑いが起こらない20分間は地獄だった...とか、生きながら死んでる男とか、ゴールデン街で飲んだ後、電柱に抱きついて話しかけていたとか、新井薬師の商店街で花柄のセーターを1000円で買ったとか、年代的にかもしれないが、ウケる話が出てくる、出てくる。彼もすごいけど、彼を選んだ加藤登紀子もすごい。
歌ってほしい曲のリクエストで『時には昔の話を』を「たまには昔の話を」と書いた人がいて脱力した...なんて話で笑いを取ったり、オノ・ヨーコとのエピソードを披露したり、ロビーでは「ペシャワール会」への寄付も行っていたし、とにかくむちゃくちゃ幅が広く、行動力がある。
オノ・ヨーコとのエピソードは、1981年、ジョンが暗殺された翌年、彼女に会いにニューヨークに行き、ロング・アイランドの豪邸を訪ねたとき、開口一番「あなた、刑務所にいる方と結婚した歌手よね?」と言われた...というもの。あっ、やっぱり笑いを取ってる。笑いが彼女のひとつの原動力なのかもしれない。もちろん、原動力は笑いだけじゃない。
会場の席のドリンク・ホルダーには、ワンカップ大関がピッタリ収まっている。しかもオリジナルラベル、加藤登紀子の写真付き。そして歌うは『酒は大関』。子供の頃、このコマーシャル・ソングはテレビ📺から、しょっちゅう流れていた記憶がある。でも恥ずかしながら、誰が歌っていたのか、今の今まで知らなかった。
そして、彼女はステージの上で、豪快に一気飲み。いやぁ、お酒強そう!ほろ酔いっていうか、飲みまくり!この日は79歳のお誕生日。
中央の赤いドレスが加藤登紀子、左の赤いドレスがタブレット純、右が湯川れい子。ラジオ関東(現 ラジオ日本)でオンエアされていた伝説のカウントダウン番組「全米トップ40」のメインDJ、キレのいいトークがカッコよく、大ファンになった。あれから約半世紀。相変わらずの力強さ。
「ねえ、あなた、1981年にオノ・ヨーコとニューヨークで会ったなんて、知らなかったわ。ヨーコと一番の仲良しは、日本ではあたしだと思ってたのに」。
すごい...。
最新刊は 『黄色いカナリア』だそうだ。読まなくちゃ。
ライブの様子は、ご本人のオフィシャル・サイトでも、語られています。
No War と書かれたサイン本を思わず購入。彼女は満洲で生まれ、戦後1年間は難民、まわりに亡命ロシア人がたくさんいる環境で、みんなで生き抜いてきた...と、話す。苦難を乗り越えて生きてきた人のパワーは無限。超人。
コンサートでは懐かしい曲も歌ってくれて、もちろん歌も素晴らしかったけど、彼女の存在感自体が圧巻。戦中戦後のことをどれだけあたしは知っているんだろう、と自問自答した。横浜のコンサートでは『リリー・マルレーン』を歌ったそうだ。
何にも知らないことばかり。今度、コンサートに行くときには『リリー・マルレーン』をリクエストしよう。生き方を見習いたい、としみじみ思った夜だった。
(敬称略 敬称をつけずに書くのは僭越過ぎてすみません)